『追憶』
(5)
頭を枕に押し付けられ、チカチカと眩む瞳が天井の明かり取りの窓枠を歪み無く捉えた頃、小松はゆっくりと口を開いた。
「無駄ですよ、トリコさん」
ベッドのスプリングの軋む音も消え、部屋を静寂が包む。
「強がるなよ。顔が青いぜ」
「そうかもしれません。でも、無駄です」
「できねぇと思ってるのか?残念ながらオレは男女関係なくイケるクチなんだよ」
信頼している人間からこのような仕打ちを受ければ、忘れたくなる気持ちが沸くだろう。トリコはそう考えていた。
「無駄なんです、トリコさん」
押さえつけられている筈の小松は、穏やかな笑みを湛えていた。
「だってぼくは…こうなりたかったんだから」
「いいですか?トリコさんがシラズの実を飲みたくなる話をしますよ」
小松は変わらずトリコの腕の間からトリコの顔を見上げていた。
なのにトリコは小松に見下ろされているような気分だった。
「ぼくは犯されながらトリコさんを求めていたんです。…助けて欲しかったのもありますけど、途中からは違いました」
『トリコさんだったら良かったのに』
恐怖と混乱に支配された頭は、相手を想い人に置き換えることで壊れるのを防いだ。
それは逃避だったのか、それとも――。
「――幻滅したでしょう?ぼくは薄汚い人間なんですよ」
ゆっくりとした動作でまばたきした後の小松の目は、かすかに潤んでいた。
ずっと言いたかった想いを、こんな形で伝えなければならない自分の愚かさに再び涙ぐむ。
「…なら、この状況にかこつけて本願を達そうとしているオレはもっと薄汚ねぇな」
逆光で見えないトリコの顔が、僅かに笑ったように見えた。
「トリコ…さん?」
「オレは男女関係なくイケるが、好きでもない男に勃つほど器用じゃねぇよ」
トリコは小松の背に手を添えて、そっと抱き起こした。
交差する頭で、お互いの顔は見えない。
「――気が狂うかと思った。お前を見つけて、そして…理解して。オレは初めて心臓をえぐられたような気分を味わった。いっそ本当にえぐられたのなら、こんな思いはしなずに済んだのかと、そう思った。」
「ト…」
「この気持ちは喪失感じゃねぇ。――嫉妬だ。」
睫毛が触れ合うほど顔が近づき、まっすぐ捕らえたトリコの顔がゆるりと傾く。
「ぁ…」
触れるだけの口付けが幾度か繰り返された後、再び抱きしめられる。
「頼む小松。オレの傷みを半分持って行ってくれ」
トリコらしくない声色が、小松には辛かった。
自分は愛する人にこんな思いをさせている。
この関係を失くしてしまう事よりも、それは辛かった。
「…わかりました…」
もう一度、今度は深く口付けられる。
口移しされた異物を、小松は抵抗せず受け取ると、まっすぐトリコを見ながら噛み砕いた。
ベッドで眠る小松の呼吸は、ここへ来て初めて落ち着いていた。
大して時間のかからないまま呼び戻されたココは二重の意味で安堵した。
「…飲ませたんだね」
「ああ」
「お前だって飲ませただろう?たとえ小松が嫌だって言っても」
「そうだね」
寝室の明かりを落としてトリコと共にダイニングへ向かう。
小松に付っきりであまり用意できなかったが、トリコのために夕食を準備する。
まずは、と小松に作ったようなスープとリゾットから給仕し、自らもテーブルにつく。
「…ところで、どうやって飲ませたんだい?」
「飲ませ方なんてひとつっきゃねぇだろ」
ココは、はぁ、とため息の後
「――次は無いからね」
と凄味を効かせた声で囁いた。
全てが済んだ今だからこそ言える軽口だった。
「ボクとしては、トリコにも飲んで貰いたいところだけど」
「そうだな…オレだけ小松の気持ちを判ってるのはフェアじゃねぇな」
「『フェアじゃない』のは誰にとってかな?」
「ハハ…小松とココの両方だな」
身を引いた時の事はわかっていても、どんなやりとりがあったのか、ココにはわからない。
それでもいつもの小松に戻ってくれたのなら、ココはもう何も言うことは無かった。
「じゃあコレを」
はい、とココは残りの実をトリコに渡す。
「どうせボクには効かないんだ」
所詮自分はこの舞台を降りる事は出来ない。
今更ながら、この体質が恨めしかった。
「だと思ったよ…巻き込んで悪かったな」
そう言うとトリコはシラズの実を口の中に放り投げる。
「もひとつ悪いがココ、後始末を頼む」
「まかせてくれ」
口の中で、プツリ、と薄皮の破れる音が聞こえ、意識を失ったトリコの身体が傾く。
「よっ…と」
倒れるトリコを片手で支える。
今度こそ、全てが終わった。
辛く長い夜の終わりをようやく噛みしめる。
「さて、コイツをどこに寝かせようかな」
小松の眠るベッドを片目で見る。小松の小さな体はベッドを大きく余らせていた。
「――コイツなんか床で十分だ…けどまぁ、許してやるか」
ココはトリコを背負いソファのあるリビングに向かった。
続く
※実際はそれなりに勃つと思います(←台無し)