小説

『ぼくたちの距離』
 
 
「あ…つッ!」
ジュッという音と、肉の焼ける臭いがココの家の寝室に響いた。
コックの小松には初めての、美食屋のココにとっては馴染みのある臭いに、ココは完全に目を覚ました。
“生きた獣の、肉の焼ける臭い”――。
同時に臭うのは、独特の毒の臭いだ。
ハントの時に使う、その毒が何を焼いた?
自分でなければ…―!
慌ててベッドから体を起こすと、視界に右手を押さえた小松が映った。
 
 
毒が焼いたのは、小松の人差し指の甲側、第一関節と第二関節の間の1平方cmだった。
臭いほど深く焼けてはいなく、骨にも異常はなかった。
「大丈夫ですから」
笑顔の小松の目の前では、憔悴しきったココが涙を流しながら治療を続けている。
「今は動かせませんけど、神経にも異常はないと思いますよ。このくらいの火傷は仕事でしょっちゅうですから、気にしないで下さい」
「いつか」
小松の言葉はココに届かない。
ココが集中しているのは、治療であり、後悔であり、流れる涙の粒さえ触れさせてはならないという想いだった。
「いつか、こんな日が来ると思っていた。でも…こんな酷いことになるなんて…!」
「だから大したことないですってば、ココさん」
小松の声も、力がこもる。
「料理人の君にとって、右手は命だ。その右手をボクは――!」
「ココさんのせいじゃないですよ!」
「じゃあ小松くんのせいだっていうのかい?この傷は明らかにボクが精製した毒で、今さっき出来たばかりのものだ。ボク以外の誰かが君を傷つけたなんてありえない!」
「それは――…っ」
一通りの治療を終えたココは、ベッドを降りると携帯電話を手にして、ダイヤルを押していく。肩に受話器を挟んだまま、寝室を出ていく姿を、小松はただ眺めるだけだった。
扉の向こうからは少しの物音と、ココの声。
「こんな時間にすまない。頼みたいことがあるんだ。…うん、とにかく今からおくるから」
小松が“おくるから”の意味を幾通りも考えていると、小松の鞄を持ったココが寝室に戻ってきた。
「ごめんね、小松くん」
そう言うとココはシーツごと小松を抱え上げて外へと移動した。
「コっ…ココさん?!」
「大好きだよ、小松くん。愛してる…さよなら」
小松の視界が漆黒の羽根に覆われた次の瞬間、戸惑う瞳に映ったのは明け始めた空と、グルメ鉄道の線路が通る渓谷。振り返れば、もうココの家は米粒ほどの大きさだった。
 
 
 
「怒ってるか?松」
「…誰に怒るんですか?ボクは」
「ははっ、そだな」
キッスが降りた先は、サニーの住むホテルの屋上だった。ホテルグルメからはさほど離れていない。
「ココの奴、朝イチで何の用かと思ったら、(お)前を自分に近づけるな、だとさ」
ココの電話の相手はサニーだったのだ。いや、相手は容易に想像できた。想像出来なかったのは、その電話の内容だった。
「勿論、そんなくっだらねェ約束したつもりはねーんだケドよ!」
ヘリの音が煩いので、どうしても声が大きくなってしまう。小松も同じく大声でサニーに応える。
「ヘリ、いつ呼んだんですか?!」
「ココから電話貰ってすぐだ!あのバカが考えることなんかお見通しなんだよ!」
キッスから降ろされた時、既に屋上にはヘリが泊まっていた。サニーに受け止められたまま、小松は地面を踏むことなく、ヘリに乗せられ、再び空の住人になったのだ。
「サニーさん」
「キッスには適わねーが、昼までにはココの家に送ってやる!それまで、話せる範囲でいいからこんな茶番の理由を聞かせろ、松」
小松は指の怪我、ココの行動、それらをサニーに余すことなく伝えた。
ココへの怒りの感情はなかった。むしろココを悲しませた自分が悲しかった。が、ヘリの音に負けないように大声を出したせいか、不の感情は消えて、どこか平静な自分がいた。
「あの毒男はああ見えて肝心なところが抜けてるからなー!」
「そうですねー!」
小松の笑顔を確認したサニーが、小松の短く刈った髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「…オレはいつでも歓迎だけどな」
サニーの小さな呟きは、ヘリの音と小松の歓声によってかき消される。窓の外には断崖に建つ家が見え始めていた。
 
 
ココの家の周りにはヘリは降りれず、二人は対岸に降ろされた。ヘリが地面を離れた頃、キッスに乗ったココが二人の下に姿を現した。
「約束はどうした、サニー」
「了解した覚えはねーし?」
「サニーさん」
自分がこの場で空気を読めていない自覚が、サニーにはあった。しかし。
「松の言いたいことは邪魔しねぇ。だが誤解を解くのは第三者に任せてもいいんじゃね?」
客観的な立場だからこそ、説得力が増すってコトもあるかもしれねーぜ?と小松の後ろで腕を組む。
「ココ。そもそもなんで松はそんな部位を怪我したのか、考えたのか?」
ぴくり、とココの右手の人差し指が動いた。視線が動かないのは、意地もあるのかもしれない。自分はもう別れを告げたのだと。誤解などあるわけがない、と。
「偶然に触れた?上手い具合に第二関節だけを?ちょっと考えたらわかることじゃね?」
「触れたかったんです」
サニーの足が、一歩下がる。引き時というやつだ。
「貴方に触れたくて、だからそっと…触ったんです」
サニーとの距離が、ふたたび広がる。小松が一歩、ココに向かったからだ。
「だから、ココさん、」
「それでも。ボクの毒がキミを傷つけたのに変わりはない」
ココは言葉で小松との距離を広げる。
「わかりました…もう、ココさんには触りません」
「!」
ココの瞳の奥が大きく揺らいだ。
「触りません…意識のないココさんには。これからは、意識のある時にココさんに触れます。いいでしょう?」
ココの視界の片隅に、片手を上げて去っていくサニーが見えた。肩をすくめるジェスチャーは、この一連の出来事の終わりを示していた。
「ゆっくりですけど…焦らず、ゆっくりと近づいていきませんか」
ココの心の中で、頑なだった何かが解けていく。
「かなわないな…小松くんには」
 
流れる涙を気にもせず、ココは小松に向かって足を進めた。
 
 
 
終わり