『闇の中の幽霊』



(2)


「ト、ト、ト、トリコ!」
幽霊話をした次の日…になったばかりの深夜、部屋のドアが慌しく開いた。
鍵はもともと掛けていなかった。スイーツハウスと同様に、部屋の鍵を持ち歩く趣味は無い。
「なんだリンか、どうした」
「幽霊…見たかも!」
「かも、って何だよ」
「スカートの端っこだけだったんだもん!フリルのついた、長いスカート…。わぁぁん!ウチ死ぬのかなぁ!」
「甲板に行ったのか?」
「ううん、トイレに行こうとしたんだけど、このフロアのトイレって窓から甲板が見えるじゃない。だから怖くなって…地下のトイレに行こうとして…。そしたら、曲がり角の方にふわってスカートがぁ!」
半泣きになりながら、リンは使っていない方のベッドに潜り込んでしまった。
「わかったわかった、調べてきてやるから」
リンを部屋に残して地下フロアに向かう。

もともと従業員用のトイレに女性用は少ない。
それらしい場所はすぐに特定出来たが、幽霊らしきものは見えなかった。
正確には幽霊と見間違えそうなもの≠探したのだが、それも見当たらない。
「幽霊、ねぇ。…幽霊に匂いがありゃあいいんだがな…」
潮と機械油、その他雑多な臭いの中に、特に覚えのない未知な匂いは無い。
部屋に戻り「何もなかったぜ」と言ったが、布団から返事はなかった。
規則正しい寝息に、オレは大きなため息で応えた。


朝、目が覚めて「きゃー」だの「トリコの部屋で…!」だの大騒ぎするリンに起こされたオレは、リンを黙らせるために食堂にやってきた。
朝が早い船員達はとっくに食事を終え、食堂は昼の仕込みをする小松だけが残っていた。
不思議がる小松に簡単に説明すると、厨房に踵を返し、小さな皿を持ってすぐ戻ってきた。
「はい、リンさん。杏仁豆腐です。虹色メープルのシロップをかけて召し上がって下さい」
「あ、ありがとう小松さん」
ようやく落ち着いたリンに、昨日伝えそびれた用件を言う。
「何もなかったぜ、リン」
「…じゃあやっぱ本当に幽霊…?うわぁん!」
再びわめきながらも、杏仁豆腐を食べる手は止まらない。
「小松、この船で死人が出たことは?」
「ボクがこの船に乗ったのは2年前ですけど、ボクが知る限りはないですね。それにこの船は結構新しいので幽霊がつくとも思えないですけど…。あ、杏仁豆腐のおかわり、まだありますからね」
「だとさ」
「じゃあもう一皿…」
「そっちかよ」
笑いながら小松はまた厨房に戻り、今度は小皿の他にボウルに入れたままの杏仁豆腐を持ってきた。
「いただきます」と言う前に腹が鳴った。


リンは一日ずっと食堂に居て、夕食を終えると、とっとと自室に篭ってしまった。
さて。どうしたものか。

幽霊話をどう決着つけたものか、と考えあぐねていたが、オレはすぐに幽霊を見ることになった。

リンを安心させるために夜中に見回りをしていると、通路を横切る人影を見つけた。
メイド服…というよりは喪服のようだった。ロングスカートの黒服に頭には濃い黒のベール。垣間見える金髪。
地に足をつけない歩き方は、確かに幽霊のようだったが、それ以上に気味が悪いのは、その匂いだった。
生きた人間の匂い。
それも――複数の雄の匂い。

娼婦か。

とっさに、そう判断する。
珍しいことではない。
ここは男だけの船で、長い航海をする貨物船だ。その手の女性が乗っていてもおかしくはない。
そう考えれば、全ては腑に落ちた。
リンに幽霊と伝えた船員には敬意を払いたい。身体は大きくても、リンはまだ20歳の少女なのだ。娼婦の存在を知られるよりは、最後まで幽霊に怯えて貰おう。


三日が過ぎると、リンは殊更元気になった。
「やっぱ幽霊なんて見てなかったんだー」
三日前には箸をつけれなかった食事に、今はもりもりと箸を伸ばしている。
「まだわかんないぜ?スカートだけ見た場合は一週間後、とかよ」
リンの箸が止まる。
「…う、トリコの意地悪ー!!」
「まぁまぁ、トリコさんも意地悪言ったらダメですよ」
「小松さんー!」
「はい、今日のデザートはスノウミルクをたっぷり使ったクリームブリュレですよ」
「ありがとう小松さん!ウチ、小松さんに乗り換えちゃおうかなー?」
「何をだ?」
「…」
「コーヒー、煎れてきますね。トリコさんもいかがですか?」
「おう」
リンの気持ちを知らないわけじゃない。
リンを大切に思う気持ちはあるが、小さい頃から同じ施設で育っていて妹のようなものだし、おそらく一時的なものだ。
今回のハントのように、研究所外に出ることが増えれば、他の男にだって目が行くようになるだろう。
小松にだって、すぐ懐いてしまった。

だが小松とて優しいだけの男じゃない。
幽霊からは小松の匂いもした。
あいつも立派な25歳の男だということだ。


幽霊は幾度か見た。
船員たちの手前、声をかけるどころか、鉢合わせしないように慎重に行動した。
不自然な雄の匂いを避ける事など容易だった。






続く